保育私論

 

下記は、私論であり、順次更新、訂正していきますのでご理解下さい。

著者プロフィール。花城清元、花福祉会理事長。保育学会会員。大学では、現象学、哲学から入り、発達心理学で修了。最近、トラヴァーセンの「自閉症の子どもたち」を読み、間主観性の考え方を発達心理学に導入する可能性に気づき、再度読み返し、考えをまとめつつあります。キーワードは、「間主観性」です。それは、個と個の間の関係と言われるが、むしろ個と個の間の関係は間主観的であると理解したい。現象学では、フッサール、メルローポンティー、心理学では、ホブソン、トマセロ、日本人では山口一郎、竹内敏晴、「語りかける身体」の西村ユミを主とします。以下、思いつきに従い、書き連ねていきます。

 


190728

実行委員会企画シンポジユームA「保育者養成を考える」

石川昭義氏発表を元に
昨年のポスター発表で、「問題のある保育者」のテーマで、保育者の問題行動が報告されていたが、養成学校だけではなく、保育園の抱えている問題でもあるので、ケアのテーマで報告します。

「存在のケア」とは
前提:保育においては、知識や技術では十分ではない。「人間性」が必要とされるのではないか。だが、「人間性」を養うには、知識や技術(行動)が必要で、気遣う心が、求められる。   

知識と技術のみだと、子供を管理する方向に繋がっていくのでは。いわゆる、一方向的、育てることのみが協調され、言うことをよく聞き、「おりこうさん」であること、受動的であることが求められるでは。子供の健康と安全を求める限り否定はできなのだが。
では、求められる人間性とは、保育者としての在り方とは、「細やかに寄り添う」ことと表現されているが、子供の活動を「傍らで見てくれる保護者の存在が大、傍観者ではない」どういう意味だろうか。傍観者ではないとは、保護者の存在が大だということは、子供を主体とした場合、保育者、保護者の在り様はどうなるのだろうか。
 相手に寄り添うとは、存在を認めることであり、そうすることで自分の存在の肯定となる。相手を認めることができて初めて、自分の存在も認めることができるのでは。その関係性を明らかにすることが、求められているのでは。
「子供から「必要とされている自分の存在」に気づいて、それにこたえようという気持ちに委ねるしかない。そうやって身につけていく養護のマインドやスキルに期待したい」その後、「存在のケアは養成できるのか」と結んでいます。
上記のことは、養成学校のみではなく、指導しないといけない園長の立場でもあると思います。子供と対する場合の、保育者の姿勢の在り様、言葉遣いだったり、いつも怒っている、園長はいつもひやひや、アレコレの問題だと思います。保育の過程で、保育者も成長していくその経過を明らかにする、子供に対した場合、自分に何ができるか、できているか、その過程で子供と同時に保育者も成長する、そこに、保育の意義があるように思われる。養成学校は、知識の伝授の場であると同時に、教えることは難しい内容ですが、保育者を要請するには、子供と対した場合の、子供が望んでいること、自分にできること、その関係の在り様に目を向けざるをえないし、そうするためには、努力と気遣う心が必要だということを認識することが大事だろう。
子供との対面:鯨岡氏や佐伯氏が使う用法は、適切かどうか。他者関係を、面と面との突合せと理解すると、他者間の共有経験がうまく説明できないのでは。面に表情が表れているのか。面は、無機質ではなく、人間性にあふれているのではないのか。
子供と保育者、母親との対面の状況はいかに成り立っているか。一方に子供の意図があり、他方に保育者の意図があるのではなく、気づきあう情況、情動と情動が響きあう関係、子供が何かを要求する、子供の状況を見て、受け止める、あるいは視線を変える、それに子供が気付く。その関係は、分かり合える、分かりあっている関係とでもいえるのではないのか。そこには、隔てられた関係ではなく、ともに在る状況といえるでは。

9月2日

 発達心理学は、子どもの成長の姿を、細かく明らかにしてくれます。年齢に応じた子どもの姿を描き出してくれますが、じゃ、保育のなかで、その知見をどう生かすか、保育のなかで普通に使われている、「友だちには優しく」ということばをとっても、発達心理学は、その「優しさ」とは何を示すのか、「優しくする」とは何を意味し、どう評価されるのか、の問いには答えることはできないと思います。なぜならこれは哲学の問題だし、科学のなかでは、優しさの意味がすでに前提されており、それを主題にすることはないのだから。なぜそうすべきなのかに、回答を与えることができるのだろうか。保育指針には、楽しくとか、すこやかになど当たり前の、常識的には納得できるが、いざ、その意味を問うと、あまりにも曖昧で、先入見にとらわれた、不確かさ。ホームページの副タイトルに、「学ぶとは」と記したのも、単に「知ること」にとどまらず、知ることは行動の仕方に現れてくるものだし、「こうではなく、こうしないといけない」と、理念的な選択、人格としての選択も意味している、と。人格とは、結局は共同体のなかでの個人のあり方であり、生き方となる。そこまで来て、問題となるのは、保育とは何か、保育するとは何を意味するのか、に答えるにはどうするのか。

個の問題ではなく、われわれ、社会、共同体のなかでの出来事、我々にとっては迎え入れる、子どもにとっては、自分で選択したものではなく、偶然に生まれ落ちた場所?そうではなく、期待され、仲間の一員として迎え入れられた存在、と理解すべきでしょう。

8月13日 町内障がい児保育講演会 感想 講師羽地知香先生
 自己肯定感を育む、でまとめてみたいと思います。添付資料の赤木さんの言葉を借りると、「自分でいい」から「自分がいい」へ、何が違うのか。「集団のなかで輝く指導」がポイントとなると思われる。了解の関係から、共感、わかり合う関係への移行。たとえば、先日の講演会の際、最後の方で僕が、「受け止める力」について発言しました。それを受けて、先生の声が一段と大きく聞こえました。「大事なことで、同意する」返答だったと思います。先生の発言後、思わず場内から拍手が上がりました。おそらく、講演終了後の司会者に求められた拍手とは違った雰囲気を持っていたと思われます。対話(話し)の場合はっきりしますが、話をして、誰も聞いていない、聞いているという感じが起こらない、すると、そこでは「自己否定」しか生じない。私たちは、常に、他者を求めているもので、独りよがりでは生きていけないものだと思います。(間主観的な生き方と言える)
 彼ら(一般化します)の場合も同様で、テレビでも紹介されてた「東田直樹」氏の「僕が飛び跳ねるわけ」手記を読むと常に思うのですが、自分の思いを形にできない、ことばにまで持って行く間の葛藤(苦しみ)、「母さん、僕のことでそんなに悲しまないで下さい」という言葉を聞くと自分が悲しくなります。自分たちのふがいなさが。「私たちには、彼らの言葉を聞く耳が備わっていないのか」と。ことばが伝わらないつらさ。ことばにするのに、こんなに労力がいるものなのか、普通なら、適当に言葉を濁らしたり、嘘もつけるのに、そういうことができない、頑なに、だから、飛び跳ねたり、からだを揺らしたり、手のひらをヒラヒラさせるのだろうけど。
 もう一つ、あまり議論されていない点ですが、「彼らは、反省、内省することができるのか」、自分のこと、他者から見られた自分を理解することができるか。他者の心を読むこと。今までは否定的に見られているが(心の理論)、果たしてそうなのか。他者を知ることと、自分を知ることは同じではないにしても、相関的なものではある。答えをもっていないが、「自分のことを知り、他者の自分に対する意志を知っているのはたしかで、欠けているのは、それをことばにしたり、行動に移す場合にうまくできない、こだわりが強くてうまくできない、そして、うまくできないことが自分でもよく分かる、だけどそれをうまく捉えきれない、表現できない」そういう状況ではないのか。果たして、そういうことばでいいのか。彼らの論理が、私たちに分からないだけではないのか、気持ち、情感の部分ではわかり合えても、その後、行動、実践の部分でうまくかみ合わない、のでは。

「K君はK君のままでいい」と認めてあげられるように、そしてK君自身もみんなに認めてもらう中で「仲間の1人」と感じられるようなクラスの雰囲気作りをしていきたい。

よいと思います。

なぜ、「K君はK君のままでいい」のか、少し考えてみる必要はあります。
「障害を持っている子」は、普通ではない、健常から外れていると思われがちですが、果たしてそうなのか。そう言っている本人は正常なのか、たしかにそうかもしれない。
ところが、私たちにできることは、異常を正常に、健常に近づけることが私たちのやることなのか。つまり、できないことをできるようにすること。できるなら、それに超したことはないが、ウマくいかないと思います。
できないには、できない理由があり、本人にもそれをうまく説明できない、だから、コントロールできない。できない人に、「どうしてできないの」と問うことほど無意味なことはないと思われる。自分のことは自分でしか解決できない、そして、それができる、と信じてあげること、できるように応援してあげること、それくらいしか私たちにできることはないように思う。
無力化と言えば、そうではない。逆で、大人の身勝手であって、自分の、社会の望む姿が、子どものあるべき姿で、それが私たちの責任のように考えてしまいがちで、それが大人の身勝手というのだろう。教育、保育のことばにはその身勝手さが隠れているように思えて仕方がない。
「教育という衣を剥がすと、何が見えてくるか。」鷲田清一という哲学者の書名ですが、そこに見えてくる姿、それは気遣いし頑張っている子どもの姿、だと思います。
子ども達は一生懸命頑張っているのです。自分の行動の一点一点に、親や保育士の目線、承諾の視線を向けているものだし、認めてもらいたいその姿、それを見失なわないようにしたいものです。

8月8,9日に岐阜県で行われた、全国障害者問題研究大会に行ってきました。急でしたので、どういう大会なのか様子を見ることが目的でした。障害児・者とその保護者、そして研究者や支援者の合同の研究大会の印象でした。

5月10日 保育学会での感想です。興味のある発表でしたので、紹介します。タイトル「なぜ自らの身体を触るのか」、うれしくなりました。今までの発達心理学では、捉えきれない部分だと思います。自我、自己は、それのみで存在しているのではなく、身体を伴って生きているという発想にたどり着けない。「指しゃぶり」を単純に悪い、必要のないこととみなし、その意味を問うことをしなかった。「自己接触による自己認知」、そこから他者の認知へとつないでいく発想。これからの発展を楽しみにしています。
僕は、現象学をやっているので、他者の問題は気をつけて追っているのですが、難しいですね。言えることは、自己、身体、他者は並列に考えないといけない、自己を知ることと他者を知ることは、同時並行的な進行で、単純に分けることはできない。メルロー・ポンティのことばですが、「哲学することは、ものの見方を学ぶことだ、」とあります。こどもの発達も同様で、ものの見方、行動の仕方、関係を生きることだと言うことになると思います。そこからすると、言葉自体も、捉え直しが必要となるのでしょう。

5月16日。
村上先生の講演会に参加しました。
「素晴らしい」「楽しい」とか、いろいろと聞こえてきましたが、問題は、私たちは、それからどうするのか、だと思うが、どうしましょう。
まずは、「つなぎ」に変えようか。村上先生の雰囲気を体現するために?
おそらくまねしょうとしても、無理でしょう。
先生は、以前赤木先生の講演で知り、「何だろうか」と思っていて、その後、琉大での勉強会で直接お会いし、短い時間でしたが、なんとなく雰囲気はつかめました。
そして、今回の講演会です。
「感想、意見」をいう機会があり、発言したのですが、舌足らずでしたので、整理します。
現状の学力主義、教育のとらえ方に疑問があり、まずそれを主張しました。メルローポンティの言葉ですが、「哲学することはものの見方を学ぶことだ」とあります。
学習することとは、に置き換えると「学習することはものの見方を学ぶことだ」となります。ものの見方とは、見方であると同時に行動の仕方であり、一般的には、物事との関係の取り方を学ぶことだとなります。それが本来の学力であり、知識の有り様だと思います。学力主義、知識主義のとらえ方だと、クイズ番組で正解を得るようなもので、子どもの成長、発達という面では意味が無い。と思います。おそらく、それを子どものほうが鋭く感じ取っているのだろうと思います。先生の実践がそれを明らかにしていると。学習すること、学ぶことは楽しいことのはずだが、いつの間にか、義務的になり、疲れるものにしたのは、結局学校教育のせいではないのか。
以上のことを、村上先生の話を聞き、確信しました。


5月9,10日、学会の68回大会にいきました。2箇所の口頭発表に参加しました。1点目、「子どもにとっての家の意味」を取り上げる。子どもにとっての「家」の意味、学生にとっての「家」の、意味と生育に与える「家」。ワークショップ形式での、授業進行の紹介であった。レジュメにあるように「学生たちが家の持つ意味、家族が子どもの成育に与える影響を自ら体感的に理解し、家庭のありようと子どもとの関係に感受性豊かに気づき、子どもの育ちの基盤を支えていける教師を目指している」とあるように、学生たちの成長における、家の意味を再発見していく目的があるのだろう。現象学的に考えると、まず、教材の使用や討論を重ねていく中で、学生たちの「自分にとっての家」を回想し他者の家の意味を聞く中で、自分の再発見と、再構成が行われていること、そういうプロセスを提示すべきだろうと思う。感想。「家」を環境世界として捉える。母親がおり、家族がある。今日がいて、保育士、保育園がある。そして仲間や、学校、社会。ルールや法律、いわゆる文化がある。その中で、承認を求め、承認を得る。そのような間主観的な関係の元で、成長し、自らを築いていく。

4月22日 しばらく休んでいました。フッサールの「間主観性の現象学Ⅰ、Ⅱ」を読んでいました。読み直しですが、難しい。身体論から共同体へ。

あそびについて。「あそび」で、子どもの全体を表せるような雰囲気があるが、「あそび」とは何だろうか。束縛・強制されない、自由と同意義ではないはず。なぜなら、われわれの生活は、規則だらけし、勝手に規則は作ることができないから。「うまくやっていける」ために、お互いに了解して作り上げたのが、本来の規則ではないのだろうか。「あそび」とわれわれの生活との間にどの様に境界をつけるのか。そもそも境界をつけることは、恣意的なことではないのか。となると、「あそび」の中のルール(規則)をどう位置づけるかが問題となる。「あそび」は、本来遊ぶことに意義がある。

3月18日に、黄金ホールで県による、予算説明会」があった。内容は、新制度の元での、補助金や新規事業の説明であった。気になったのは、保育園における教育の問題。保育園は養護と教育、幼稚園や小中は、「教育」。短絡していますね。養護とは、教育とは何?その議論無しには前には進めない。教育するとは、知識を与えること。行動の仕方を与えること。子どもの側からすると、それらを身につけること。それではすまないはず。社会の一員として恥ずかしくない、うまくやっていける等どうしても道徳やら価値観が含まれてくる。立派な大人、偉い人。うらがえせば、立派でない、偉くない、善悪?それでは解決にはならない。教育を世代間の伝達と捉えるにしろ、一方向的に捉えるのではなく、教師と生徒との相互関係、育てると育ちの相互関係を明らかにしないと、うまく見えてこないのでは。下に「育ちを関係の構築」と捉えると記したが、「成長」するとは、どういうことなのか、この子にとってはどういう意味を持つのかを問い詰めていく必要が生じてくる。下に、トマセロの言葉で、「人間は本来的に協力的である」と記した。フッサールの後期の言葉に、世界への根源的な信頼、「世界信憑」とある。根本的な部分に、他者への信頼があるのでは、ということになる。

2015年3月4日 子どもの育ちを支える運動シンポジゥム】私保連主催。【子どもの心を育てるために】鯨岡峻 研修会に参加しました。「心を育てる」とは?どのような心を育てるのか、と問うと、目標論的になり、立派な大人に、一人前の大人を目指すというような議論となり、先に進めなくなりはしないか。立派な大人とは、どのような大人なのか。おそらく解答はできない。言葉にしにくいが、目標論的に問題設定をすると、どうしても「できる・できない」の評価的な態度になってしまう。育ちを、関係の構築として捉える必要がそこにはあるのではないのか。「哲学することは、ものの見方を学ぶこと」の言葉があるが、学習すること、育つとは、ものの見方を学ぶこと、行動の仕方を学ぶことと、置き換えることもできるのでは。心を育てるには、育てる主体(大人)の、育ちが前提になる。どうしても、育てる側の育ちを無視できないのでは。鯨岡氏の発言では、「子どもを慈しむ、愛する気持ち、子どもに流れ入る気持ち」自己肯定感は、子ども1人で作るものではなく、周りが認める態度から、作られるものであると。子ども-大人(保育士)の、相互の認め合い、情感の共有、「あなたが大事」だという、態度。大人から子どもへの一方向的な関係ではなく、相互に育て合う、育てることと、育ちは表裏の関係にある。いわゆる大人の育ちにつながるということか。「接面」気持ちが向き合う、子どもの気持ちはみるものではなく、感じること、寄り添うこと。うらがえせば面接となるが、他者と相対すること、一種の緊張感。どう思われているか、自分はどういうような対仕方をしているか。ヒトは、本来言葉でのつきあいではなく、情感の交差、言葉以前でのつきあい、いわゆる「簡身体性」。「ヒトは本来、優しい心を持って生まれてくる」。ところが「2才3才頃になると、社会との関わりの中で意地悪な心を身につけてくる」トマセロの要約です。重たい言葉ですが、救われる気持ちにさせます。もう一つ、非対等的な関係の中で「根源的配慮性」「存在承認欲求」が結びつくとき、接面が成り立つ。わかり合える関係が成り立つ、と。配慮性とか、承認欲求とは、人に本来備わっている、本能的な性質と捉えることができるのか。検討する必要がある。

2014年12月4日 「保育の質」をめぐる研究動向と課題、和光大学2009年年報より。「幼児教育・保育という営みは、様々な教育・福祉の仕事の中でも、特に保育者の人格的な資質や、カンやコツといわれる属身的な技術に左右される割合が高い営みである」といわれる。保育の質に関しての議論であるが、保育をどう評価するか、「よい」保育とは何か、誰が、どこで評価するのか。しかしながら、いつの間にか、評価され、了解されている。「目に見えて」といっても良いくらいである。常識的な判断、衆知の判断?「北欧諸国のそれは市民としての全人的な発達と福祉、遊びや関係性と好奇心が強調され、子どもへの信頼と子どもと共にカリキュラムを作り出すという思想が重視されている」全人的とな何を意味しているのか、これこそ周知の事実、常識的、万人共有の価値?遊びや関係性と好奇心、子どもの働き、主体性を尊重することなのだろうか。ところが、現実は、集団生活の中で、望まれた行動が先にあり、それを守ることを強制される。いわゆる「しつけ」。保育の現場では、声を枯らさんばかりに怒っているし、主体としての子どもはどこに行ってしまったんだろうか。よい保育士とは、クラスをうまくまとめている、騒がしくない、整然としている。食育に関して、「食事は楽しく」といわれるが、「おしゃべりせずに静かに」「野菜から先に食べましょう」しまいには「三角食べ」等もいわれるようになる。だけど、子どもはそれを望んでいるだろうか。それでは「集団は成り立たない」といわれるが。保育の現実を考える場合、了解されている理念、それを問題とせざるを得ないが、まだ証明できないが、あまりにも常識的で、反省というか、捉え直し、再構成がなされてなく、自然と問題なく、進んでいっているようにみられる。どうでしょうかね。

2014年11月27日 インターネットで紹介されていました.「今日」原題は todayです。ニュージーランドで昔から語りつがれてきた誌です。「今日、私は皿を洗わなかった。ベッドはぐちゃぐちゃ つけといたおむつはだんだんくさくなってきた ・・・・ 澄んだ目をした かみのふわふわあな、この子のために すごく大切なことを していたんだって ・・・ わたしはちゃーんとやったわけだ」。短い誌ですが、人並みにというか、人以上にはできないけれど、子どもの優しい、訴えるような目を見ていると、それでもいいんだよ・・と。安心させてくれます。複音館書店の絵本「今日」を紹介します。この子のために、と思っていてもうまくできていない自分をみてしまい、ダメな母親だと。保育もそうですが、子育てとは、何も立派な大人を作ることではなく、共に生きる生活、生きていくことそのものだと思わせます。偉いとか、善悪で語る以前の「私たちの生活の仕方、生活そのもの」だと思います。

平成26年11月25日 22日に琉大の「発達支援教室」の研究会に参加しました。24日は、NHKの再放送でしたが「・・・」を、観ました。高機能?の自閉症者で、コミュニケーション能力を補完するために、脳の情動に関する部位が発達したとあったが、専門的なことは抜きにして、「私のことで、悩まないで下さい、苦しまないで下さい」との内容があった。私は大丈夫、ちゃんとやっていけるから、両親の悲しい顔を見たくないとのメッセージだと思います。結局私たち大人は、正常、異常の2元論でみてしまい、異常だから病気で、直さないといけない、と。そうじゃないんだとの強いメッセージだと思いました。「普通じゃなくてもいいんだ、他と違っていてもいいんだ」との歌詞もありますが、大人視線、常識的な生き方、改めて考えされられました。

「発達支援教室」のほうは、1年間の活動報告。支援教室、保育園での実践報告。「できあがってくるルール」、ルールは通常、守らないといけないもの、共同の中での約束事、法律となってしまうが。企画する際、はじめにルールありきでは、うまくいかないのは見えている、発生的にできあがってくるルール、協同する中で、うまくいくために自然とできあがってくる「ルール」、そこまでくると、ルールではなくなるが、そこら辺の実践報告があっても良いのではと思いました。

 

平成26年11月21日 ホブソン「自閉症と心の発達」より、ウエルナー&カプランからの引用。「初期の相互関係の形態は、他者に対してメッセージを“伝達する”というよりも、他者とともに経験を“共有する”という性質のものである・・・最初、個人間での相互交渉は純粋に感覚-運動-情動的関係において起こる。しかし、遅かれ早かれ新たに人間特有の関係性が出現する。それが経験を共有する関係であり、そのもっとも明瞭な初期の表れが、母親の微笑みに応じて乳児が微笑みを返すものであろう。」社会的行為、関係性。社会的参照->社会的承認?

平成26年11月20日

昨日(19日)福島大の大宮先生の研修会に参加しました。

「学ぶ力」、コミュニケーション能力、いろいろと考えされました。思うに、メルローポンティの言葉ですが、「哲学することは、ものの見方を学ぶこと」とありました。哲学を学びに取り替えると、見方を学ぶとは、物事のとらえ方、行動の仕方だと思います。同時に、関係の仕方。心理学者ホブソンが語る、「関係性の様式」。ものごとを捉えるとき、二つの見方があると言われる、いわゆる、ノエマとノエシス。考えられたこと、述定、考えるその仕方、その二つを考慮に入れなければいけない。飛躍してしまうが、教育「する」ではなく、学び、育ちを大事にする、そこら辺を考えてきたいと思います。「できる、できない」にとらわれた場合、何を評価の根拠にしているのか。指針に書かれたことは、きわめて常識過ぎて、どこかに立派な大人像、人間像があるかのようだが、常識的な大人の見方を反省し、見直す作業も必要となるのでは。「教育」自体が、すでに与えるものが前提とされ、評価と結びついている。「学力」となるわけだが、「学力」とは、そもそも学ぶ力であって、知識の集積ではなく、上記の「ものの見方、行動の仕方、関係の仕方」を獲得することだと思うが。

もう一点は、保育者の気づき、おそらく知性だと思いますが、が問われる?